歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪【雑感】小林秀雄とその文章≫

2021-06-16 17:24:38 | 文章について
≪【雑感】小林秀雄とその文章≫
(2021年6月16日投稿)
 

【はじめに】


 以前に、冨田健次先生の著作『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』(春風社、2013年)の【読後の感想とコメント】を書いた際に、小林秀雄について述べたことがあった。今回の記事は、その時の記事に加筆したものである。参考文献などにリンクを貼っておいたので、参照していただきたい。
 なお、高田宏『エッセーの書き方』(講談社現代新書、1984年[1988年版])を読み直して、作家の文章読本についての記事を加筆してみた。



さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・小林秀雄の文章観について
・殺し文句の小林秀雄
・「人生観」という言葉
・小林秀雄の文章は悪文か?
・小林秀雄による漱石と鷗外の位置づけ
・小林秀雄と『本居宣長』
・小林秀雄の批評
・小林秀雄の谷崎潤一郎読本の評価について
・小林秀雄の文章の魅力
・小林秀雄の歴史観について
・小林秀雄とツキジデスの歴史に対する見方の根本的相違について
・【補足】文章を書くということ~高田宏『エッセーの書き方』 より
・【補足】書くということ~谷崎潤一郎の『文章読本』のハイライト







小林秀雄の文章観について


小林秀雄は、言葉に対する考え方について、たとえば、「様々なる意匠」の冒頭で、次のように述べている。
「遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾(しそう)しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。」(小林秀雄『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房、1969年、202頁。新潮社編『人生の鍛錬』新潮社、2007年、12頁)。

※【引用者の注釈】
・指嗾(しそう)とは、「人に指図して、悪事などを行うように仕向けること。指図してそそのかすこと。」
・「嗾」は、「けしかける」「そそのかす」の意味。◆「しぞく」と読むのは誤り。
・<例文>「生徒を指嗾して騒ぎを起こす」

【『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房はこちらから】

現代日本文学大系 (60)

【新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社はこちらから】

人生の鍛錬―小林秀雄の言葉 (新潮新書)

つまり、言葉というものは、人心眩惑の魔術を持っているというのである。
ところで、より実務的、体験的アドバイスとしては、批評家小林秀雄のそれが有用かもしれない。
小林は「文章について」の中で、評論を書き始めた頃は、自分の文章が平板で一本調子な点に不満を覚えていたことを記している。
同じ問題を色々な角度から眺めて、豊富な文体を得ようとしたが、どうしたらよいかわからなかったので、仕方がないから、ある問題の一面をできるだけはっきり短い文章を書き、そして連絡を考えずに、反対な面から眺めたところをまたはっきりと短い文章を作り上げたという。
それはちょうど切籠(きりこ)の硝子(ガラス)玉を作るような気分であったようだ。そうした短章を原稿用紙に芸もなく2行開きで並べていった。そんなことを暫くやっているうちに、玉を作るのにまず一面を磨き、次に反対の面を磨くという様な事をしなくても、一と息でいろいろの面で繰り展(の)べられる様な文が書ける様になったというのである(新潮社編、2007年、91頁)。

たとえば、「骨董」というエッセイの中で、骨董の所有について次のような文があるのが、小林のいう「切籠の硝子玉」でも作る気分の文章であったのであろう。
「美しい物を所有したいのは人情の常であり、所有という行為に様々の悪徳がまつわるのは人生の常である」(新潮社編、2007年、124頁)。ただ、これは、出典年譜によれば、1948年、46歳のときの作品であるので、書き始めた頃の文章ではない。
また、「批評」というエッセイでは、「批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。」(新潮社編、2007年、211頁)。
これも、「切籠の硝子玉」のような文章であるといえよう。「批評」は、1964年1月の作品で、62歳の目前のエッセイであるので、老年に至っても、この文章作法は維持されていたのであろう。
ちなみに、小林秀雄は「徒然草」という批評の中で、
「文章も比類のない名文であつて、よく言はれる枕草子との類似なぞもほんの見掛けだけの事で、あの正確な鋭利な文体は稀有のものだ。一見さうは言えないのは、彼が名工だからである」と述べている。つまり『徒然草』の文章は「比類のない名文」であり、「正確な鋭利な文体」であると、小林は高く評価している。
そして、その著者の吉田兼好は、詩人ではなく、批評家であったと捉えている。つまり「物狂ほしい批評精神の毒を呑んだ文学者」であったというのである。兼好は、よく引き合いに出される、『方丈記』を著した鴨長明なぞには似ておらず、フランスのモンテーニュに似ているという。モンテーニュが生まれる200年も前に、兼好は遥かに鋭敏に簡明に正確にやったというのである。つまり『徒然草』が書かれたという事は、新しい形式の随筆文学が書かれたというような事ではなく、純粋で鋭敏な点で、空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件として理解している。『徒然草』の二百四十幾つの短文は、すべて兼好の「批評と観察との冒険」であったというのである(小林、1969年、256頁~257頁)。

殺し文句の小林秀雄


殺し文句にかけて海内無双の名手といえば、これはもう知れたこと、小林秀雄であると向井敏はいう。
大正末年、24歳の秋に、発表したランボー論にはじまって、晩年の大作『本居宣長』にいたる、およそ半世紀間のその著作歴は殺し文句の絢爛たるオンパレードの観を呈したとみる。この人の生涯は、人を悩殺し、驚倒させ、感服させる名文句を工夫することに明け暮れたと向井は評している。小林秀雄ほど、殺し文句に憑かれた人はいないという(向井敏『文章読本』文春文庫、1991年、105頁)。

【向井敏の『文章読本』はこちらから】

文章読本

「人生観」という言葉


たとえば、「人生観」という言葉がある。われわれはこの言葉を解かり切ったように使っているが、この言葉について、評論家小林秀雄は、「私の人生観」という講演の中で、改めて注意を促している。この言葉が日本で普通に使われ出したのは、やはり西洋の近代思想が入ってきて、人生に対する新しい見方とか考え方がおこった時からであろうという。しかしそうかといって、人生観という言葉は外国にはないようで、観という言葉には日本人独特の語感があると指摘している。この「観」という言葉に非常な価値を置いたのは、仏教の思想であったとして、『無量寿経』などをもとに解説している(小林、1969年、305頁~306頁)。
なお、西洋史家で小林の従弟(いとこ)である西村貞二によれば、小林自身の口から、「やや会心の文章といえるのは、『私の人生観』と『モオツァルト』ぐらいかなア」と語られたということである。
「私の人生観」というのは、昭和23年(1948年)、新大阪新聞社主催の講演会で行なった「私の人生観」と題する講演記録に手を加えたものであるが、小林秀雄自らが会心の文章というだけあって、読み応えがある(小林秀雄『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房、1969年、305頁~329頁、西村貞二『小林秀雄とともに』求龍堂、1994年、74頁、川副国基『小林秀雄』学燈文庫、1961年[1979年版]、176頁~177頁)。

【西村貞二『小林秀雄とともに』求龍堂はこちらから】

小林秀雄とともに

【川副国基『小林秀雄』学燈文庫はこちらから】

小林秀雄 (学灯文庫)

 読み応えのする箇所を具体的に挙げてみると、たとえば小林は批評活動について、次のように記している。
「批評しようとする心の働きは、否定の働きで、在るがまゝのものをそのまゝ受納れるのが厭で、これを壊しにかゝる傾向である。かやうな働きがなければ、無論向上といふものはないわけで、批評は創造の塩である筈だが、この傾向が進み過ぎると、一向塩が利かなくなるといふをかしな事になります。」(小林秀雄『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房、1969年、317頁)

批評活動のもつ否定的傾向について触れ、それが向上に役立つ半面、度が過ぎればいたずらに観念上の混乱に陥りやすいことを指摘している。このことを小林は「批評は創造の塩」という巧妙な比喩を用いて表現している。つまり、批評というものは、ものごとをつくり出す上で、料理の味をつける塩のような役割を果たすもので、向上心を刺激し創造に役立つという本来の意味がはたされるはずのものであるという。

小林秀雄の文章は悪文か?


小林の文章は難解である。このことは誰もが認めるところであろう。ただ、小林の文章は悪文かというと、この点については見解が分かれる点であろう。このことに関連して、小林自身にまつわる面白いエピソードがある。小林自身も、自らの文章を“悪文”と評したことがあるのである。
小林秀雄の言葉を拾い集めた簡便な本として、新潮社編『人生の鍛錬』(新潮社、2007年、179頁)があるが、この本に次のように記してある。
「あるとき、娘が、国語の試験問題を見せて、何だかちっともわからない文章だという。読んでみると、なるほど悪文である。こんなもの、意味がどうもこうもあるもんか、わかりませんと書いておけばいいのだ、と答えたら、娘は笑い出した。だって、この問題は、お父さんの本からとったんだって先生がおっしゃった、といった。へえ、そうかい、とあきれたが、ちかごろ家で、われながら小言幸兵衛(こごとこうべえ)じみてきたと思っている矢先き、おやじの面目まるつぶれである。教育問題はむつかしい」(出典「国語という大河」)

このエピソードは、小林自身の身内でも、よく知られたエピソードであったらしく、妹の高見澤潤子も、引用している(高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年、226頁)。
話の内容は、娘の国語の試験問題を見せられた親父である小林秀雄が、意味のわからない悪文だから、わかりませんと書いておけばいいと答えたら、実はお父さんの本から引用した文章であると先生が言われたと娘が笑い出し、親父の面目がまるつぶれになってしまったというのである。これは小林秀雄が自分の文章を悪文と思わず評してしまい、娘に一本を取られてしまった笑い話である。
小林は、日常生活では、うっかりした性格のところがあったらしい。たとえば、旅行先でパスポートをなくしたと騒いでいたら、ちゃんとホテルに置いてあったり、カフェのテラスにカメラを置き忘れたりと、「忘れものの名人」であった。また、講演旅行の時には、ホームに荷物を置いたまま、列車に乗り込んでしまったことなどもあったようだ。これらのことは、従弟の西村貞二や妹の高見澤潤子が証言している(西村貞二『小林秀雄とともに』求龍堂、1994年、31頁、119頁。高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年、232頁~233頁)。

【高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社はこちらから】

兄 小林秀雄

小林秀雄による漱石と鷗外の位置づけ


小林秀雄は「私小説論」の中において、漱石と鷗外を次のように位置づけている。
「鷗外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかつた。彼等の抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察してゐたのである。彼等の洞察は最も正しく芥川龍之介によつて継承されたが、彼の肉体がこの洞察に堪へなかつた事は悲しむべき事である。芥川氏の悲劇は氏の死とともに終つたか。僕等の眼前には今私小説はどんな姿で現れてゐるか」(小林秀雄『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房、1969年、216頁)。
つまり、鷗外と漱石は抜群の教養をもっていたので、自然主義小説の不具を洞察しており、私小説運動と運命をともにしなかったと理解している。彼らの洞察は芥川龍之介に継承されたものの、その芥川は夭逝してしまう。

森鷗外と本居宣長についての小林秀雄の言及


鷗外と宣長について、小林秀雄は『無常といふ事』において、次のように記している。
「晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの膨大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。」(小林、1969年、253頁~254頁。新潮社編、2007年、108頁)。

『古事記』といえば、因幡の白兎、国引き、オロチ退治、海幸山幸、天の岩屋戸の話など、親しみやすい古典である。
ところで、西郷信綱は、『古事記伝』という宣長という縦糸と、イギリス社会人類学の横糸とを交錯させる新しい問題意識にたって、古事記を読み解いた。西郷は、『古事記』を、そのいわゆる潤色・作為とかをふくめて、古代人の経験のあらわれとして読んでいった(西郷信綱『古事記の世界』岩波新書、1967年、12頁)。

【西郷信綱『古事記の世界』岩波新書はこちらから】

古事記の世界 (岩波新書 青版 E-23) (岩波新書 青版 654)

小林秀雄と『本居宣長』


本居宣長という人物について、冨田健次先生の著作『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』(春風社、2013年)でも、言及されていた。
「「棄民」としての角屋七郎兵衛―ベトナムにあだ花を咲かせた松阪商人」の中で、
伊勢松阪にまるわる歴史上の有名人として、
1)江戸時代の偉大な国学者で、生涯をかけて著した『古事記伝』が有名な本居宣長
2)呉服商や両替商として巨万の富を築き、財閥三井家の基礎を築いた三井高利
3)松阪の城主でもある戦国の武将蒲生氏郷(後に会津92万石の大名となった名将)
こうした有名人の他に角屋七郎兵衛(かどや しちろうべえ)という松阪商人を挙げておられた。角屋七郎兵衛は、伊勢を基点として、堺、長崎そしてホイアンを結ぶ海外貿易圏を確立した商人である。
(冨田健次『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』春風社、2013年、233頁~240頁)
【冨田健次『フォーの国のことば』春風社はこちらから】

フォーの国のことば: ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ

それ以来、私も、本居宣長に関心を抱くようになった。
ところで、昭和53年(1978)、小林は『本居宣長』という大著で、日本文学大賞を受賞した。その時に、次のような挨拶をしたといわれる。
その挨拶の中にも、小林の文章観の一端が如実にあらわれているといえよう。
その挨拶とは、
「どんな本でも売れなくっちゃ話になりません。これは本居宣長さんの根本思想で、医者だった宣長さんは、自家製滋養丸の広告などうまいものでした。私も宣長さんの教えにならって、本の広告をしましたが、私の文章は、読み進むうちに、立ちどまったり、前へ戻ったりしないとわからないように工夫がこらしてあります。知らず知らず、二度三度読むような文章になっています。定価は四千円ですが、長さからいえば、一万二千円クラスの本で、大変な割引になっております。」(高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年、214頁)。

つまり、小林の文章は、立ちどまったり、前へ戻ったりしないと文意が辿れないように工夫してあるので、「知らず知らず、二度三度読むような文章」だと自ら語っている。
なお、『本居宣長』という本の見返しには、日本画家の奥村土牛(おくむらどぎゅう、1889~1990)が描いた山桜の絵が載せてあり、花好きの小林を想起させるようになっている(高見澤、1985年、195頁)。

小林が推敲して、文章を削っていったことについて、妹高見澤潤子も次のように証言している。
「兄は原稿をよみ返し、書き直している間に、だんだん原稿がへって行く。私などよみ返すたびに書き足すので、原稿がふえる方が多いが、「本居宣長」など毎月の原稿を書いているうちに、はじめは十何枚かあったのに、だんだん減って、三枚ぐらいになってしまうこともある。それほど煮つめ、凝縮させてしまう。大抵の人が原稿半枚ぐらい書くところを、二、三行ですましてしまう。言葉を運び、文章を工夫し、表現にみがきをかけるために苦しむ。そのために難解にはなるが、詩のように言葉に盛られた内容は重い。詩の評論とも、評論の詩ともいえるのではないだろうか。」(高見澤、1985年、223頁)。

これによれば、普通の人は、原稿を読み返すと、文章を書き足すのだが、小林は逆で、煮つめて、凝縮させる方向に向かう。原稿半枚ぐらいを2~3行ですますくらい、言葉を選び、文章を工夫し、表現にみがきをかける。だから、小林の文章は、「詩のように言葉に盛られた内容は重い」というのである。小林の評論を、「詩の評論」もしくは「評論の詩」と形容されるのは言い得て妙であろう。
また、兄小林秀雄が色紙を頼まれた時に、よく書いた言葉として、「批評とは無私を得んとする道なり」というのがあることを妹は記している。この言葉は確かに形而上的である(高見澤、1985年、225頁)。

【小林秀雄『本居宣長』新潮社はこちらから】

本居宣長(上) (新潮文庫)

【小林秀雄『本居宣長』新潮社はこちらから】

本居宣長

小林秀雄の批評


<文学>観念を所有しているにもかかわらず、具体的な場に即すことで、<文学>というオブセッションを超克し得た例があり、近代の評論の実質が形成されてきた。一例が小林秀雄の場合である。
小林の批評的営為は、批評を文学として自立させた最初の試みとして位置づけられることが多い。その意味では、彼の努力は<文学>に向かって行われており、<文学>自体を撃つことはなかったともいえるのだが、小林にはその登場のはじめから、自らの<言葉という体験>に対する稀有のつきとめといったものがあったといわれる。それを手離しては、どのような観念にも上昇しなかった点に特色があり、その点で<文学>という観念にも問われなかったと樫原はみている(樫原修『小林秀雄 批評という方法』洋々社、2002年、263頁)。

小林秀雄の谷崎潤一郎読本の評価について


「一見平凡に見えて読了して考へてみるとやつぱり名著だと思つた。
文学志望の知人がこれを読んで、やゝ心外の面もちで、一向面白くない、と言つた。僕も同感である。読みやうによつては一向面白くもない本だと思ふ。(中略)
氏は通俗を旨として書いた、文人や専門家に見せるものではない、と断つてゐる。僕は文人でも専門家でもないから、色色教訓を得た。この書の説く処は通俗かも知れないが、空論といふものが一つもなく、実際上の助言にみち、而もあれだけ品格のある通俗書といふのは、到底凡庸な文人や、専門家の能くするところではない。」(小林秀雄『文芸読本 小林秀雄』河出書房新社、1983年、75頁)。
小林秀雄は、「菊池寛論」の中で、「僕が会った文学者のうちでこの人は天才だと強く感じる人は、志賀直哉氏と菊池寛氏とだけである」と述べている。二人の鋭敏さは端的で少しも観念的な細工がないという(新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年、57頁~58頁)。

小林秀雄の文章の魅力


小林秀雄のエッセイ集『無常といふ事』に対して、批評家河上徹太郎は推賞文として、次のように記している。
「本書の文章は、リズムが明確で、感覚が冴えていて、知性の強い筋金がしっかりと入っている。繰り返して読んで飽きることがなく、また繰り返して読むことによって始めてその含蓄の深さに驚く。言葉の最もすぐれた意味における作品である。」
川副は、小林秀雄独特の思考が随処にひそめられており、それだけに難解な点も少なくないともいう(川副国基『小林秀雄』学燈文庫、1961年[1979年版]、64頁)。

【川副国基『小林秀雄』学燈文庫はこちらから】

小林秀雄 (学灯文庫)

小林秀雄の歴史観について


小林のいう歴史は、近代的歴史観、あるいは知の枠組そのものに鋭く対立するものであるという理解を樫原修はしている。しかもそう考える小林自身、近代的語彙で語らざるを得ないところから、問題は二重に解きがたくなっている。
同様のことは、歴史に限らず、『無常といふ事』の全体を通していえることだというのが樫原の理解である。小林の文章の難解さを吉田熈生は「文体の問題」に帰したのに対して、樫原は、意味から切り離されたところの文体などというものに求めてはならないと主張している。そして小林の文章は、一見平明な論理をたどりつつ、常識に逆らう冥(くら)いものを表現しているとみる。その意味で中村光夫の「合理的手段以外に表現の技術を知らぬミスチック」という把握は至当の言だと考えている(樫原修『小林秀雄 批評という方法』洋々社、2002年、206頁~207頁)。

【樫原修『小林秀雄 批評という方法』はこちらから】

小林秀雄 批評という方法

ところで、『無常といふ事』の諸篇は、古典を生き生きと現代に蘇らせた鮮明な論として注目された。中でも「当麻(たいま)」では、「無用な諸観念の跳梁」する近代と対照して、乱世といわれる室町時代を「現世の無常と信仰の永遠とを聊かも疑はなかつたあの健全な時代」と呼んでいるが、これが小林の中世像の基調となっている。そこに、それぞれの中世人の生と文学の形が描かれているとした。
また小林の描いた実朝像は、対象の実像の鮮明といったことからは遠いものであり、小林の描いた中世像は、小林の反近代の志向が生んだ幻像であるとするのが、一般の傾向であると樫原はみている(樫原、2002年、199頁~201頁)。

小林の得た歴史の方法として、有名だが誤解された部分として、次のような箇所がある。
「子供が死んだといふ歴史上の一事件の掛替への無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい」
小林はここで、「生き物が生き物を求める欲望に根ざす」本来の歴史発生の場に居つづける母親の智慧について悟り、それを自己の方法とするといっている。
「客観的」な歴史観に対立する主観的歴史観を提出しているわけではないと樫原はみる(樫原、2002年、231頁~239頁)。

国立国語研究所室長をへて、早稲田大学の教授でもあった中村明の『名文』(ちくま学芸文庫、1993年)でも指摘しているように、小林秀雄独特の修辞が用いられている点は注意しておいてよい。
たとえば、「ゴッホの手紙」(昭和26~27年)において、
「理想を抱くとは、眼前に突入すべきゴールを見る事ではない、決してそんな事ではない。」
「これはゴッホの個性的着想という様なものではない。その様なものは、彼の告白には絶えて現れて来ない。」
これらは反復否定で、「~ではない」と一度打ち消したあと、「決して~ではない」「絶えて~ない」と強く念を押し、強調的に駄目を押す文の展開である。これは批評家小林秀雄が多用する極言のひとつの方法である。極言は非常に危険な修辞であるが、小林は恐れずに用いていると中村明は解説している。
また極言は、人を驚かす内容にふさわしい形式であるともいう。たとえば、「当麻」で、世阿弥の美論に言及した際には、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」という表現がこれに相当する(小林、1969年、252頁。新潮社編、2007年、106頁)
これは「ロダンの言葉」の「美しい自然がある。自然の美しさという様なものはない」を転用したものといわれる。小林という批評家は、こうした方法で人に訴えるときの効果が、それをどういう形式で表すかよりも、どこにその方法を用いるかにかかっていることは注目されるべきだと中村は説く。強調すべき点の見定めに、小林は天才的な冴えを示す批評家であったというのである(中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年、258頁~264頁)。

【中村明『名文』ちくま学芸文庫はこちらから】

名文 (ちくま学芸文庫)

小林秀雄とツキジデスの歴史に対する見方の根本的相違について


西村貞二は、小林秀雄の批評を皮肉って、アテネの歴史家ツキジデスを例に出して、次のように記している。
「歴史は神話である。史料の物質性によって多かれ少かれ限定を受けざるを得ない神話だ」(『ドストエフスキイの生活(序)』)なんて聞いたら、トゥーキュディデスは吹き出すかもしれない。」
「歴史は繰返す、とは歴史家の好む比喩だが、一度起って了った事は、二度と取返しが付かない、とは僕等が肝に銘じて承知してゐるところである。それだからこそ、僕等は過去を惜しむのだ」なんて聞いたら、トゥーキュディデスは呆れるだろう。」と。
つまり、「歴史は神話である」という小林秀雄の言い方をもしツキジデスが聞いたら、吹き出し呆れるというのだ。というのは、ツキジデスは、神話・伝承と事実を峻別することが歴史の始まりであると主張したからである(西村、1994年、172頁~173頁)。
樫原も指摘しているように、小林の歴史観について探ろうとすると、困難な問題が存在する。つまり「彼は<歴史>について、核心の部分ではいつも、曖昧とさえいえるような含みの多いいい方をするのだし、明瞭な歴史観を再構成しようとすると、互いに矛盾するようにみえる言葉が存在するのである。その点で、小林の<歴史>は、まだ十分に明らかにはされていないと思われる。」(樫原、2002年、159頁)。

また、小林秀雄は西村の文章に対しては、厳しかったようである。間延びした拙劣な文章を書いた西村に対して、「あゝいふ短文ででもカッチリしたものを書かうと心掛けてゐないと文章はいつまで経つても上手にならないものである。(中略)つまらぬ短文ででも文章を作る覚悟をしてゐなければ、文章上達の機を逸して了ふ」と手紙を送っている(西村、1994年、140頁)。
小林の歴史観には問題があったものの、文章に対する姿勢には当代随一の評論家らしく、従弟に対してまで厳しかったことがわかろう。

【補足】文章を書くということ~高田宏『エッセーの書き方』 より


井上ひさしの『自家製文章読本』にも「冒頭と結尾」という一章があって、井上はここで、
「文章とは、冒頭から結尾にいたる時間の展開である」ことを語っている。
ここにいう結尾というのは、結論という大袈裟なことではなくて、ただの終わりのことである。重点は冒頭のほうにある。
井上が引用している時枝誠記(ときえだもとき)の一行を引用しておく。つまり、国語学者・時枝誠記の『日本文法・文語篇』のなかの一行である。
「文章は、冒頭文の分裂、細叙、説明等の形において展開するので、冒頭文の展開の必然性を辿ることは、正しい文章体験の基礎である。」
いかにも学者らしい堅苦しい書き方だが、ここにも最初の一行が分裂し展開してゆくことが語られている。
言葉が言葉を呼ぶのである。
そこには言葉の力、ひろい意味の論理がはたらく。文章を書くということは、その展開の必然性を辿ることであると、高田宏は主張している。
(高田宏『エッセーの書き方』講談社現代新書、1984年[1988年版]、25頁)

【補足】書くということ~谷崎潤一郎の『文章読本』のハイライト


似たようなことを、谷崎潤一郎が自分の体験から語っている。
谷崎の『文章読本』のなかで、少々遠慮がちに言っているが、ここが谷崎読本のハイライトであるといわれている。
最適な言葉をえらぶという話を書いたあとに、こう書いている。
「然(しか)らば、或る一つの場合に、一つの言葉が他の言葉よりも適切であると云うことを、何に依って定めるかと申しますのに、これがむずかしいのであります。第一にそれは、自分の頭の中にある思想に、最も正確に当て嵌(は)まったものでなければなりません。
しかしながら、最初に思想があって然る後に言葉が見出だされると云う順序であれば好都合でありますけれども、実際はそうと限りません。その反対に、まず言葉があって、然る後にその言葉に当て嵌まるように思想を纏(まと)める、言葉の力で思想が引き出される、と云うこともあるのであります。一体、学者が学理を論述するような場合は別として、普通の人は、自分の云おうと欲する事柄の正体が何であるか、自分でも明瞭には突き止めていないのが常であります。そうして実際には、或る美しい文字の組み合わせだとか、または快い語調だとか、そう云うものの方が先に頭に浮かんで来るので、試みにそれを使ってみると、従って筆が動き出し、知らず識らず一篇の文章が出来上る、即ち、最初に使った一つの言葉が、思想の方向を定めたり、文体や文の調子を支配するに至ると云う結果が、しばしば起るのであります。(中略)
私の青年時代の作に「麒麟(きりん)」と云う小篇がありますが、あれは実は、内容よりも「麒麟」と云う標題の文字の方が最初に頭にありました。そうしてその文字から空想が生じ、あゝ云う物語が発展したのでありました。ですから、一つの単語の力と云うものも甚だ偉大でありまして、古(いにしえ)の人が言葉に魂があると考え、言霊(ことだま)と名づけましたのもまことに無理はありません。これを現代語で申しますなら、言葉の魅力と云うことでありまして、言葉は一つ一つがそれ自身生き物であり、人間が言葉を使うと同時に、言葉も人間を使うことがあるのであります。」(谷崎潤一郎『文章読本』)

谷崎潤一郎の言うことに素直に耳を傾ける必要がある。その話が理屈に合っているかどうかなどとは考えず、言葉についての谷崎の作家としての体験をまるごと受け入れることが大切であると、高田は説いている。

谷崎は「言霊」ということまで言っている。言いかえれば、「言葉の魅力」「言葉の力」と言っている。
言葉には不思議な力がある。
高田によれば、その力を信じて原稿用紙に立ち向かうのが、書くということであるとする。
そのとき、一見偶然に使ったかに見える一つの言葉が、いつか必然になってくるものらしい。
(上記に引用したように、谷崎も「麒麟」という青年時代の作品を例に挙げている)

谷崎の言うように、書くこと、つまり言葉の力を信じて書くことは、新しい自分の発見でもあるようだ。自分には見えていなかった自分が、書くことによって姿をあらわしてくる。その自己発見のよろこびが、書くという行為にはともなっていると、高田はいう。
(高田宏『エッセーの書き方』講談社現代新書、1984年[1988年版]、25頁~29頁)

【高田宏『エッセーの書き方』はこちらから】

エッセーの書き方 (講談社現代新書 (743))



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